自分にはないモノを持っている人たち

私は,ブログで文章を書いて記事を作っています。


記事を投稿してからも,自分の文章をずーっと読んでいることがある。投稿してからも気になってしょうがない。それが一応,誤字脱字,文脈を精査する機会にはなっています。でも,自分の書いた文章を実際に読んでどう感じるか,それが気になるのです。それが終わると,次は,他人の文章を読みたくてしょうがないと感じるようになるんです。


文章を書くということで気づいた事。それは文章を書くためには,文章を読む必要があるということ。さらに付け加えると,私が文章を書くためには他人の文章を必ず読む必要があると思うんです。そうしないと私は書くということができないのだと思います。


他にも気が付きました。文章を書くと,読みたくなる文章に傾向があるのです。自分と異なる存在。自分にはないモノを持っている人たちの文章。自分より年上の文章,自分とは異なる文章表現を求めてしまいます。


私は,文章を書くと,渇きに似た衝動を覚えます。自分とは異なる文章表現を見ることで心が癒やされていきます。そして,異質なモノを吸収しようとしています。


異質なモノを取り込んで,それから新しく文章を書く。また異質なモノを,というサイクルで新しくなにかを書いていく。そうすると新しい文章表現ができるようになるかもしれません。



自分より年上の文章

年上の文章に,自分の未来を重ねて見るからでしょうか。私は30代ですが,40代,50代,最高だと70代のブログを読みます。

語り方の視点の違い,語り方に特徴があります。年齢によって文章から風格を感じます。文章に貫禄が滲み出ていると思うことがあります。

文章表現では,書く視点の違い,文章の間隔のとり方,空白の使い方によって生み出される特有のリズム感と語り方によって,その人特有の文章表現が生まれていくのだと思います。

一番は,湿り気のあるしっとりとした口調で心情を吐露していくことができる人。これはズルいなと。読んでて染み込んでくる。文章に心を掴まれてしまう。


年上の人のブログを探すと良いブログと良い文章に出会えると思いました。


自分にはないモノを持っている人たちの文章

ほんわかと,のんびりと,とりとめのない日常を書くことができる人がいます。私はほんわかとした文章は書けません。書こうとしません。でも,ほんわかとした文章を書かないから,ほんわかとしたものが読みたくなるんです。読んでて,今日も平和だったんだと思えて心が平穏になっていきます。


次に,営利目的ではなく,好きなモノを個人的に紹介できる人も好きです。紹介している商品に興味がなくとも文章を読みます。楽しそうに書かれた文章に惹かれています。紹介している理由もよくわからない時があって,売上とか絶対的な指標から外れた存在の文章。それが面白いです。


ほんわかとした表現ができることも大事なことです。そのまま書いて表現しないほうが良いこともありますから。それと私は水道水をブログでレビューしたことがあります。なんでもいいからレビューしたくなるときがありますね。


異質な文章

異質な文章といっても,意味は理解はできる程度の文章です。異質すぎると,そろそも理解すらできません。

私の場合は,アニメについて語っている人の文章が異質に感じることがありますね。使っている単語の意味が理解できないことが多い,社会科学、心理学、経済学を絡めて語られることもある熱量の高い文章。


必ずしも理解しようと読んでいるわけではありません。それでも読んでいて突然爆笑してしまったり,自分の新しい一面に気がつく,可能性を発見できます。新しい趣味が見つかるかもしれません。こういうのは飛び込んでみないとわからないと思います。異質なものほど発見があるようなそんな気がします。


最後に

読むことと書くことは別物だと思っていたけれど,そんなことはないよと思いました。

書いたら読む。読んだら書く。

他人の表現まで吸収して表現を極めたいです。