信長という共有財産
織田 信長(おだ のぶなが、天文3年5月12日〈1534年6月23日〉 - 天正10年6月2日〈1582年6月21日〉)は、日本の戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。三英傑の一人。
引用元:織田信長 - Wikipedia
織田信長は史実上の人物ですが、現代でもフィクションの存在、概念として信長が描かれています。
例えば、大河ドラマでも登場するし、義務教育でも習うから戦国大名の中で信長は最も有名でしょう。
歴史書だけでなく、詩、小説、ドラマ、アニメ、どこでも織田信長が出てくる。
特に織田信長の描き方は多彩で物語で使われ続けていることを考えると、もはや信長が共有財産なのではないかと思う。
そのようなわけで、自分も信長をどう描くかなぁって考えるわけ、割とガチで。
歴史に詳しいなら、史実に沿って描いてもいいし、
歴史なんて調べず、オリジナルの信長を描いてもいい。
結局、信長は描きたいように描くのが正解ってことになるよね。
ベースは歴史上の信長なんだけど、信長の使い方は自由、みたいな。
そんな気がするんですよね。
最近の信長って、創作の中では、女性化されたり、タイムスリップの役割をやらされているイメージかな、もう何でもあり。
こうなってくると、むしろ、信長の在り方は自由であったほうがいいし、時代も常に新しい信長像を求めていると思うんだよね。
ちょっと壮大。
歴史は詳しくない僕も気がついたら信長を勝手に使っているからね、無断で。
一応、気をつけている事があって、愛がないのは良くないと思うね、だって大切に使っていきたいから。
フィクションを書いていると、登場人物をとりあえず信長にしてみたり、安土桃山時代を舞台の装置にしたり、昔の事に興味が湧かないから現代風に書いてみたりと、次第に史実とかけ離れていく感じもするけど、それすらも信長という言葉で表現してしまえば謎の説得力が生まれる気がするんだよね。だから、なんでも信長にしとけばなんとかなるでしょ、みたいな、安易な考え。
ひとつだけ、僕の一方的な信長像を押し付けないように気をつけたい、かな。
うん、
信長を使っていきたい、
自分の信長像も大切にしていく。
他の作品を見ても信長の描き方なんてみんな違うし、みんな、どう描くか迷うんだろうなぁ、実際の信長なんて会ったこともないから、想像するしかないでしょ。
そうすると、生の信長に会ってみてぇなぁ、なんて思っちゃうよね。
あ、そう思っていたら、心の中から信長が勝手に産まれてきちゃったよ(笑い)。
ホームレス信長「オギャー(放浪中ゆえ、儂に構うでない)」
ニート信長「オギャー(ひま)」
AIと化した信長「オギャー(ブンブン・ハロー!百姓)」
みたいな。
なるほどね、信長は心から中から産まれてくるわけか、理解した。
ずばり、信長とは、安土桃山の歴史を知ることで、心の中に産まれる存在なわけだ。
とはいえ、織田信長って人は、明智光秀って奴に裏切られて死んじゃうんだけどね。
実際の信長はもういないけど、みんなの心の中には、信長がいつもいるからね。
大丈夫。
信長は共有財産です、
たぶん。
※本記事は、原作を参考にリライトした記事です
【原作】
約束の価値観 - ですね。note
【原案】
『第2のRira』⑥
ブログ新企画やりまーすPART2 - ですね。note
【あとがき】
リライトのアイディアが浮かびませんでした。
でも、信長のことを書いておけばなんとかなると安易に考えて書きました。